昨年、真夏のある日、ふと思いたって町田市の鶴川にある旧・白洲邸に行った。 ギラギラと容赦なく照りつける太陽の下、汗だくになりながら駅から15分ぐらい歩いたところにそれはあった。通称・武相荘(ぶあいそう)。戦後、吉田首相に請われてGHQとの折衝にあたり、「従順ならざる唯一の日本人」と言われた故・白洲次郎氏の住処である。小高い丘の上、蝉の鳴き声に覆われるように茅葺屋根の日本家屋がひっそりと佇んでいた。 なぜ、そこに行ったのか? それは白洲氏の直言集「プリンシプルのない日本」を読んで、どうしても行ってみたくなったからである。青年時代をケンブリッジで過ごし、英国気質を身に付けた白洲氏はその直言集の中で日本人のプリンシプルの無さを嘆いている。プリンシプルとはただ単に筋を通すということではない。ちゃんと自分の頭で考えた自前の筋を通すということである。 『よく日本人は「まあまあ」って言うんだ。「まあまあ」で納めるのもいいんだよ。妥協ということに僕は反対するわけでも何でもないんだ。妥協は妥協でいいよ。だけども、ほんとの妥協ということは、原則がハッキリしている所に妥協ということが出てくるんでね。日本人のは妥協じゃないんだ。単なる頬かぶりですよ。原則をほったらかしといて「まあまあ」で円く納めようとする。納まってやしないんだ。ただ問題をさきへやってこうというわけだ。臭い物には蓋をしろというんだよ』 もう50年以上前の発言である。 今の日本にもまだプリンシプルがない。 だから国際社会における対応もふらふらするし、政・財・官界での不祥事も絶えない。 プリンシプルを持つには一人一人が自分の頭で物事の本質とは何かということを考えるしかない。 プリンシプルのない人間に、納得のいく人生は送れない。 さて、何から考えよう?